桜散っても梅は咲く
木の花幼稚園の歴史と居合演武
金沢市長町にある木の花幼稚園での居合演武も平成21年(2009)から隔年で四回目を迎えた。
当流居合伝者北島國紘師が昭和六十年(1985)頃から木の花幼稚園旧園舎の講堂にて谷口忠先師と約六年程稽古に励んでいた思い出の場所を平成二十年(2008)に訪ねた際、先師より「珠姫さまにまつわる物があるという北側に一礼するよう教えられた。」ことを園長に話し園内を探したところ、仏壇の中に位牌があることが確認された。
先々代の園長は「珠姫の位牌を明治三十八年(1905)の開園時に珠姫の菩提寺である天徳院側から贈られたと聞いた」と話しているという。
この時の事がご縁で、約二年毎の二月に子供たちの親御さんで構成される「おやじの会」のイベントにて居合の演武が実現した。
今回は二月二十七日(土)に行われた居合演武を紹介するとともに、木の花幼稚園の歴史にも触れてみたい。
「戦時紀念の為に設立されしその名も香しき木の花幼稚園」云々…
と明治三十八年(1905年)六月十二日付北國新聞に掲載された木の花幼稚園の開園を伝える記事。
この当時は日露戦争の真最中で半月ほど前には東郷ターンでも有名な日本海海戦があった時期であり、約三ヶ月後にはポーツマス条約が締結される。
帝政ロシアが日本に講和を持ちかけるならば誠意を持たなければならない…などポーツマス条約に向けての記事や兵隊さんの葬儀、今月の兵役免除者などなどの戦時記事の中、木の花幼稚園の開園は伝えられた。
石川県仏教婦人会の計画によるもので、当時前田家の菩提所であった天徳院の押野住職の主唱により設立された。
日露戦役が起こるによって、初代園長の長寛子刀自をはじめ複数人によって、国民の愛国心を喚起し深くこれを脳裏に刻む教育は幼児からでも早くなく、幼稚園を設けることで教育の普及を補い帝国(日本)の文華に貢献し、仏教の本領に従いながら四恩を報謝する一端となるよう、幼稚園には長町五番丁の民家をあて、幼児60名を収容した。のようなことが金沢市教育史稿に記されている。
「北陸地方における幼稚園の歩みと展望」 著者:南信子氏 日本幼稚園協会出版より引用させていただいた。
長町五番丁の民家とは当時の長克連元男爵の屋敷のことで、初代園長の長寛子刀自は長克連男爵の御母堂であり、前田家家老本多政均の長女である。
少々話は逸れるが、本多政均は明治二年(1869)金沢城二ノ丸殿中において尊攘派により暗殺されている。その三年後、本多家家中は仇討ちを果たすのだが、元禄期の赤穂事件と重ねられ「明治忠臣蔵」などと言われている。その過程は明治六年に山口戸富造編『加賀近江三所ノ仇討』(金沢市立玉川図書館近世史料館氏家文庫所蔵)という実録物に仕立てられている。
機会があれば『加賀近江三所ノ仇討』にも触れてみたい。
長寛子刀自の御生誕1860年は桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺された年でもあり、明治維新…富国強兵へと突き進み、日清・日露戦争を迎えることになる。
前田家紋の剣梅鉢にちなんで命名されたという木の花幼稚園…桜の花が散り、長い苦難のわだちを踏ませないためにも…木の花幼稚園という梅の花を咲かせ、子供たちに未来への希望を託したのだろうと勝手に思っている。
さて、演武当日…
今朝からおっとこ前の住処近隣の「泉野菅原神社」に今回の演武の報告と無事を祈る。
主祭神が織田信長公ということもあり、木の花幼稚園初代園長、長寛子刀自のご先祖様は前田利家公に仕える以前は織田信長公に仕えていたからだ。
そして木の花幼稚園での居合演武は北島國紘師による珠姫様御位牌の前からはじまる。
基本業である正座の「前」を奉納し、木の花幼稚園居合演武始りの儀式であり、谷口忠先師もされていたという奥居合立業の「惣留 」で階段を下りてくる。
仏教幼稚園が原点のなごりでもあろう、珠姫様の御位牌が納められているご仏壇が園舎ホールの北側に安置されているが、ここで園児たちも手を合わせる習慣が養われ、まさしく四恩を報謝する一端となっているに相違ないと思われる。
続いて園児たち、親御さん含め五十人ほどが見守る中、おっとこ前といつもの相棒とで十の業でひとつの「太刀打之位」から四業を抜粋し木刀を使用して披露した。
写真は心明剣という業で、おっとこ前が相棒に首根っこを切られる予定の場面。
演武をする空間と親御さんたちの観覧席とのあいだを縄で区切っているのだが、これを開始前設置しているとき、「この縄に引っかかる子供たちがいるだろうから、簡単に動く方がよいだろう」などと心配していたが、この縄に真っ先に…しかも唯一引っかかったのが…
彼だ(ヤツだ)
そう…木の花幼稚園の園児以上に駆け巡り、当園児でもないのに「ここはね、ホールっていうんだよ」なんて説明までしていた。
昨年末に入門したての女性に優しい四歳児。
木刀を逆さまに振る可愛らしさもあったが、周りのはじめて見る同世代の子供たちの前でも委縮することなく堂々としていた。
いずれ首根っこを切られる予定になるのだろうかと眉間にしわが寄った…。
そして最後に北島國紘師所有の真剣三本(短刀アリ)を親御さんと園児たちに実際に手に取ってみてもらった。もちろん安全には十分な配慮を期すために、持つだけだったが、それでも園児たちが真剣を実際に手にすることによって、危険なものを扱うことの難しさとか配慮とか後々親御さんとの会話の中で学んでいってほしいと強く願った。
世間にはすぐに「危ない!」といって危険なものを手にさせない親御さんも大勢いるなか、前回も今回もそんな人は誰一人いなかったし、むしろ進めていたのが印象深い。
真剣を見せる側はとてもドキドキだったが、こういうイベントは続けるべきだと強く思う。
昨年2015年に創立110周年を迎えた木の花幼稚園の長い歴史を見守ってきたであろう20メートルはある大きなクロマツが向かいの等雲寺境内に屹立している。
そしてその近くには金沢居合始祖野村条吉大師のご嫡男正室アヤ子さんが今現在も木の花幼稚園と金沢の居合を見守りくださり、今回の演武にもお元気なお姿をお見せくださいました。
今は亡き人々の想いだけでなく、今を生きる人々や自然…に見守られながら伝統は受け継がれていくことを肌で実感できたことは何よりの喜びだ。
四歳児が大人になり、木の花幼稚園の園児たちに昔話をしている姿を想像すると愉快である。
by センチメンタルおっとこまえ