投稿日:2018年2月5日

武神と軍神

節分すぎに鬼門の方へ転居する。

大阪で生を授かり今日まで鬼門へ鬼門へと引っ越してきた。

ぐーぐる先生に「鬼門」と聞いてみると「何をするにも避けなければならない」と教えてくれた。にも拘らず半世紀にかけて曲がりなりにも「何をするにも避けなければならない」方角へと邁進してきた。知人に「ここは鬼門だから…ふにゃふにゃ」という輩がいても「案ずるな!俺は鬼門に進んできたが、総合的におよそ幸せだ!」と言ってのけるかっこよさ。

そして実家は裏鬼門。あああ…

金沢市内の現在地へ移って四年になるが、その間近隣の織田信長公が祀られている泉野菅原神社には大変お世話になった、それは境内での飲酒量が三本指にはいるほどの神社であるからに違いないのだが、ここでの初詣も今年が最後になるだろうと遅ればせながら三日に詣でた。

氏子衆が「本日の参拝者第一号でーす」などと言い、玉串を奉納し加賀前田家の御紋「梅鉢」が焼印された御神菓まで頂いた。

なんと二枚も!

泉野菅原神社の御神菓

さてさて

網地島(宮城県石巻市)の友人を訪ねた後は米沢の友人を訪ねる予定だ。

「友人」と馴れ馴れしく言って良いのか、山形県米沢市を基点に米沢織物を全国で販売し、行きつけの呉服屋さんで知り合って以来のお付き合いだが、山形で会うのは今回で2度目。前回は白鷹織(西置賜郡白鷹町)の伝統工芸士佐藤新一氏を訪ねた際に大変お世話になったが、今回は初めてお酒を酌み交わすことができるのだ。かねてより行きたかった呑喰処で!

そして米沢へ行くのならば上杉神社には参拝しておきたい。上杉景勝公が米沢に移封される前の居城だった春日山城(新潟県上越市)には何度か訪れたが米沢は初めてなのだ。

でもそれは続編で!

その前に

網地島から第1便で石巻へ、網地島ラインへ戻ったのは朝8時半ころ。そのまま米沢へ直行しても、ちと早すぎる。

ならば折角なので

本当に芭蕉も楽しみにしていた…のか?「松島」をちょい寄りして、翌日参拝予定の鹿島神宮の主祭神「武甕槌神たけみかづちのかみ」と香取神宮の主祭神「経津主神ふつぬしのかみ」の両武神が祀られている「鹽竈しおがま神社」に参拝した後に米沢に向かおう!

鹽竈神社は大和朝廷が蝦夷えみし征討の軍事拠点として724年(神亀元年)に設置された多賀城柵の鬼門に位置する。東方の松島湾沿岸では縄文期から製塩されていたらしく、多賀城柵へも塩が運ばれていたらしい。そういう意味では鹽竈神社の役割は非常に大きなものであったと想像するが、その時代の蝦夷や大和朝廷に思いを馳せてみることに興味はあれど、観光地化された松島にさほど興味はない。と言ってしまった。

ただただ、話のネタに

松島

などと思い、数分の観光客気分でフラりと立ち寄った松島も、震災の爪痕は未だに残っていた。地元の人々にとって大切な観光資源であることに変わりなく、少々気の毒な気持ちになった。が、福浦島(画像の大きな島)に渡ってウミネコを撮って直ぐさま引き上げる。

松島 福浦橋のウミネコ

芭蕉一行が楽しみにしていたという「松島」と「象潟」両方訪れた。そして奥の細道には「松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。」とある。今の私にはよくわからないが、餌も与えずに近づく私を恨めしそうに見ているウミネコの気持ちはよくわかった。

松島 福浦島かやの崎

福浦島の最北端「かやの崎」、浸食された岩肌に歴史を感じるが、網地島で見たリアス式海岸の圧倒的な壮大さに比べると…比べてしまった。

松島は遠くから眺めるとキレイダヨ。

そして松島からほど近くに鎮座する鹽竈神社。そして真横に志波彦しわひこ神社も鎮座している。明治初期に鹽竈神社の別宮に遷祀されたが、昭和初期に現在の位置に新たに遷宮された。両神社の由緒や歴史は公式サイトをご覧いただきたい。

鹽竈神社と志波彦神社の神社について

鹽竈神社

最初に鹽竈神社に参拝する。主祭神である「塩土老翁神しおつちのおじのかみ」は松島湾に背を向けた「別宮」に鎮座され、南を向いた本殿二棟に拝殿一棟の「左右宮」は「武甕槌神(左宮)」と「経津主神(右宮)」が鎮座されている。

鹽竈神社 別宮

神職の方に伺うと、左宮、右宮、別宮の順番にお詣りするらしい。別宮にもお賽銭箱と二本の鈴緒が左右に別れていて、これはどちらでもいいらしい。明治初期に志波彦神が別宮に遷祀されていたときの名残だろうか…。

上の画像が別宮で、下の画像の拝殿に向かって右側が「左宮」左側が「右宮」だ。

左右宮に向かって右側の小さく見える灯篭の上部分が「文治の燈篭(旧文治神燈)」そして手前の大きい灯篭が「銅鐡合製燈籠(文化燈籠)」

鹽竈神社 左宮と右宮 銅鐡合製燈籠

「文治の燈篭」は奥州藤原三代秀衡の三男泉三郎こと藤原忠衡(和泉三郎)が文治3年(1187年)7月(鎌倉初期)に寄進したもので「文化燈籠」は仙台藩の九代藩主伊達周宗よって文化6年(1809年)(江戸後期)に寄進されたものだそうです。

そして境内にはなぜか「撫で牛」が。

鹽竈神社 撫で牛

天神さま?菅原道真公でも祀られているのか?と思いきや

開運、商売繁盛「撫で牛」。諺に「商いは牛のよだれ」(商売が牛の涎のように細く長く続くように、の意)とあるように牛は撫でるとよく涎を出すところから祈願奉納された

そういえば先述の泉野菅原神社には菅原道真公も祀られているが撫で牛がいなかった。もしやこれが⁉

なわけはない

鹽竈神社 舞殿

国宝・重要文化財(建造物) に指定されている鹽竈神社の建造物の中で、指定されていない同じく江戸中期くらいだろうか、「舞殿」がある。ここで能楽が奉納されたかどうか記録が見つからないが、塩竈市指定文化財の「塩竈神楽」が定期的に奉納されているらしい。

志波彦神社

次は鹽竈神社の横に鎮座する「志波彦神社」にむかう。こちらの拝殿にも鈴緒が計四本あるが、お賽銭箱も二つあるのだろうか…と思ったがここは一つ。「志波彦大神」が主祭神。

志波彦神社拝殿

向かって右側にある授与所で伺うと、御札以外の御守りは鹽竈神社も志波彦神社もほぼ同じなんだけど、志波彦神社のみが書かれているのは肌守だけだそうだ。

自分の家紋と同じ三つ巴の御紋を見てしまうとどうしても心くすぐられてしまうから神社に行くと大変なのです。

志波彦神社肌守

境内鳥瞰図をまじまじ見ると、鹽竈神社の境内にむりやり詰め込まれた感のある志波彦神社だが、延長五年(927年)の「延喜式」で官社に指定されていた全国の神社一覧に「名神大社」として記載されている古社だ。

ちなみに鹽竈神社は「延喜式えんぎしき」の延長五年(927年)には存在はしていたが記載のない、いわゆる「式外社」と呼ばれるが共に古社であることに違いはない。

鹽竈神社 境内鳥瞰図

さて、冒頭で織田信長公が祀られている泉野菅原神社に軽く触れたが、信長公が若干若いにしてもほぼ同世代を生きた上杉謙信公が祀られている上杉神社へと今から向かう。信長公と謙信公は私の実家近くの手取川で天正5年9月23日(1577年11月3日)に合戦をしている。当時信長公自身は参戦していないが軍勢は謙信公に敗れ撤退している。興味ある方はググってね。

志波彦神社 鹽竈神社 御朱印

この記事が投稿される頃に転居は済んでいる。そして新居の鬼門には小坂神社が鎮座するが、祭神は「天児屋根命・武甕槌神・経津主神など」が祀られている。そして裏鬼門には尾山神社が鎮座する。武神が我が家の鬼門と裏鬼門を護ってくださるのはまっこと有難い。

そして次回は上杉神社を訪ねる。

本当は鬼門など気にも留めていないけどね by おっとこまえ

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