剣聖と東国三社
ひょんなことから山岳信仰の諸霊山を巡ることになって、はたと気付いて東日本大震災の爪跡地に立ってみた。
ほんの少しだけ死生観をくすぐられたような気になった九日間の東北旅最後は、人の生死に向き合わざるを得なかったであろう戦国時代を生きぬき、剣聖とも云われた「塚原卜伝」を追慕し「自らの道を見据え、要となる決意を支えるための場所」と云われる東国三社を訪れた。
時は応仁・文明の乱以後の乱れ混沌とした戦国の世
常陸国に勢力を持った平氏大掾氏の庶家、平姓鹿島氏の四宿老のひとり吉川左京覚賢の次男として1489年、長享3年(延徳元年)に塚原卜伝は生まれた。
天児屋根命十代の孫なる国摩大鹿嶋命の後裔、「国摩真人」という者が、武甕槌神 が神代に用いたと云われる「韴霊剣」の霊位を授かるべく、仁徳天皇の御代に鹿島の高天原に神壇を築いて祈った末に「神妙剣」と称する刀術を発明した。これが「鹿島の太刀」と称する刀法の古伝で、吉川家はこの刀法を修めた鹿島神宮の神官のひとつであり「鹿島上古流」・「鹿島中古流」と発展してきたという。そして卜伝は「鹿島の太刀」を実父覚賢より学ぶ。
そして卜伝五~七歳のころに鹿島氏の庶流、塚原土佐守安幹の養子となり、飯篠長威斉家直を流祖とした「天真正伝香取神道流」 をも義父安幹から学ぶことになる。
廻国修行で戦場という修羅場をくぐりぬけてきた経験と若き日に学んだ鹿島と香取の剣をもって悟り啓くその時に、飯篠長威斉家直の門弟であった松本備前守政信から「一つの太刀」を伝授されたといわれている。
ここより引用
ト伝が飯篠長威粛の子孫と思われる弟子飯篠某のために密か事として始めたもので、一首一首吟味して詠まれているが、現存する九七首すべてがト伝の作とは思えないし、もちろんト伝は百首をめざしたのではない。
切るるとて新身の太刀を帯ぶ人は
必ず不覚ありと知るべし武士のいかに心はたけくとも
知らぬ事には不覚あるべし武士は女にそまぬ心もて
これぞほまれの教なりける学びぬる心にわざの迷ひてや
わざの心のまた迷ふらむト伝は弟子たちを指導する上で、こうでなければならぬ。という押付けを一切しなかった。それぞれの能力、それぞれの特性を生かして自分の剣をつくれよ。というのがト伝の教え方であった。従って、ト伝は生涯流名を立てなかった。すでに、天真正伝香取神道流、小田流、中條流等世間に知られた流派があるにもかかわらず流名を立てなかった。だから、ト伝の弟子はそれぞれが勝手に自分の流名を立てていったので、ト伝が誰よりも多くの流祖を弟子に持ったことになる。「剣聖の面影
塚原ト伝の生涯」
編集 矢作幸雄
発行 塚原ト伝顕彰会 より抜粋引用ここまで
卜伝の残したとされる「卜伝百首」を全首掲載している書籍を閲覧できるサイトがあるので興味のある人は覗いてみてほしい。
軍人精神修養訓 図書 武川寿輔 編 (軍需商会出版部, 1909) 国立国会図書館デジタルコレクション
茨城県鹿嶋市。北浦を望む塚原城跡の南東に位置する須賀地区。豊かな田園が広がる古来不変の狭い道を進むと駐車場が見えてくる。きっとこの駐車場辺りが幕末に焼失した梅香寺跡であろう。すぐ後方にある台地の中腹を削って造った段上に卜伝とその妻、妙の墓碑(市指定史跡)がある。
写真中央奥の墓石の右側から「宝剣高珍居士」「仁甫妙宥大姉」かなり風化が進んでいるが、屋根が設置され、地元の人たちによってお花が手向けられ丁寧に手入れされている。
私が駐車場へ車を停めると、続いてブレーキ音と共に一台の車が横に停まった。剣術でも嗜んでいそうな風体三人のおじさまたちがそぞろ降りてきて、私と顔を合わせるや大声で
「いやああ~石川から来られたんですかぁ~、ご苦労ご苦労~、うははは~」
周りの風景に目もくれず一心に墓碑へ向い、「ほお~」「へえ~」などと何かに感心した様子で、合掌し、記念撮影し、先に着いた私がまだフラフラとどこそこを見ている間に、もう戻ってきて、「じゃあ!うははは~」と言って手を上げ車に乗り込むと、急発進でバックし軽くホイルスピンして去っていった。
ここは鳥のさえずりしか聞こえないような静かな集落である。
さて、お墓に背を向け集落を見渡すと、左方向に寺らしき建築物が見えた。卜伝と何らかの関係があるかも、と思い立ち寄ってみることに。
梅香寺が焼失した際、住民により卜伝夫妻の位牌が持ち出され、近くの長吉寺に安置されたと云われる。
真言宗豊山派 須賀山長吉寺
御本尊は子育観音(聖観音菩薩像)
駐車すると同時に自転車でやってきたご住職と思われる管理者は、先ほどホイルスピンして帰っていった三名のおっちゃんたちとは真逆の世界に生きている感がどうしても否めない、口数少なく穏やかな微笑みで軽く頷きながら静かに本堂の扉を開けてくださった。
ありがたく中で座してお参りさせていただいたが、ここにはお賽銭箱が置かれていないので、やむなく仏像が立ち並ぶ手前に少々納める。そして少しお話でも…と思ったが、黙々と何かを書かれているご様子で、お礼を述べてすぐ引き返した。
古い山門横のしいの木のような老木の上から、同種の新芽が育ったのか、違う植物が宿っているのか…とりあえず双方元気そうだが、、老木を先ほどのご住職と仮定するなら、宿り木は先ほどのホイルスピン三人組であろうか、大きく三本に分かれているように見える。
誰がいつやってこようと、どのような態度をとろうと、私の手の平の上でのこと。ふふふ。
そんなふうに思えて仕方なかったが、決してホイルスピン三人組は素行が悪かったわけではない。誤解なきよう。笑
さらに南東、車で10分位だろうか、すぐそこという感じで鹿島神宮が見えてくる
東国三社
鹿島神宮(武甕槌神)・香取神宮(経津主神)・息栖
神社(岐神)
「東国三社」と云われるのは、葦原中国(日本の古称)を平定する際、大国主神が隠棲する代りに案内役として、岐神を武甕槌神と経津主神に遣わした「国譲り」神話に由来している。
また江戸時代には「下三宮参り」と称して、関東以北の人々が伊勢神宮参拝後にこれら三社を巡拝するという慣習が存在したらしい。
鹿島神宮を訪れると最初に目につく、誰が決めたのか日本三大楼門(鹿島神宮・阿蘇神社・筥崎宮)。寛永11年(1634年)、水戸徳川初代藩主の頼房公により奉納された、高さ約13m、国の重要文化財に指定されている楼門。
楼門を抜けるとすぐ右手に、本殿・石の間・幣殿・拝殿の4棟からなる社殿が現れる。元和5年(1619年)、徳川二代将軍の秀忠公が寄進したもので、こちらも国の重要文化財に指定されている。
拝殿の真向かいには宝物館があり、武甕槌神が神代に用いたと云われる「国宝 韴霊剣」が展示されている。
鹿島神宮の国宝「韴霊剣」に纏わる話<パワースポットニュース >
拝殿から奥宮へ向かう300m程伸びる奥参道は鬱蒼とした巨木に覆われ、5月1日には御田植祭に併せて流鏑馬神事が執り行われている。
御田植祭に参加する童女たちは赤襷をかけて田植え姿となり、拝殿前で四隅に竹を立て注連縄を廻した中に手をつないで丸くなり、祭員が笛、太鼓で田植え歌を奏するのにあわせて田植え舞を奉仕する。
荒田返し 水播きて
秋の稔り 豊かにと
早苗植うる 神の御田
いざ来乙女 早乙女よ
御田植祭が終わると同時に奥参道にて「鹿島流騁弓(流鏑馬神事)」が奉仕・披露される。
奥参道を奥宮へ向かうと左手に神鹿と遭遇する。奈良にいる鹿はもともとは鹿島から輸入されたものであったが、現在は奈良から鹿島へ逆輸入されているらしい。だからといって鹿せんべいは売っていないし与えてもいけない。そして犬の散歩も厳禁だ。鹿が驚くそうだ。
宝物殿の受付で聞いたのだが、毎朝神職二名でこの参道を竹箒で掃除するのだという。写真では解りにくいがとても綺麗に手入れされていて、午前十時頃に訪れたのだが、丁度掃除が終わったころだった。「まるで修行僧のようですね」と言ったら、「そうですね」と言って神職たちに敬意をもって答えてくれたのが印象深かった。
慶長10年(1605年)に徳川家康が関ヶ原戦勝の御礼に現在の本殿の位置に本宮として奉納したものを、その14年後に新たな社殿を建てるにあたりこの位置に遷してきたものだという境内摂社奥宮の周りも、ほぼ完全に掃除されていた。
「東国三社」二社目は鹿島神宮から車で2~30分くらい南下した常陸利根川に向かって鎮座する息栖神社
常陸利根川と接続する船溜まりの奥に一の鳥居があり、その両側に「男瓶、女瓶」という当時海水だったころに淡水が湧き出したという「忍潮井」がある。
拝殿の手前左手にある社務所で御朱印を頂ている最中しばし見入った。
還暦を過ぎていそうな熟男三人がそう広くもない社務所内で黙々とお仕事に励んでいる。決して対応が冷たいとか怖いとかではなく、良い意味で”粛々”といったほうが良いだろう。
ああ…どうしても先ほどのホイルスピン三人組とダブらせてしまう…。
中間くらいでいいんだ…。
ホイルスピン三人組と社務所三人組の中間くらいのテンションが丁度いいんだ。
鳥のさえずりしか聞こえないくらい、私を含めて男四人が向かい合う…。もう心の声と笑いが漏れてきそうで、しかも御朱印の手書きの個所は日付だけで…。
あああ…
笑いを堪えながら参道の両側にあるご神木 「那岐の木」と「招霊の木」を見入ったり触れたり語りかけたり、、心を落ち着ける。ご神木と云われるにはそれなりの理由があるのだろうが今回は触れないでおきたい。
「東国三社」三社目は息栖神社から真西に鎮座する香取神宮を訪ねる。常陸利根川と、誰が決めたのやら「日本三大暴れ川」のひとつと言われる利根川と小さな黒部川の3河川を渡る。
「東国三社」にはじまり、「日本三大楼門」「日本三大暴れ川」。
おお忘れてはならない「ホイルスピン三人組」と「息栖神社社務所三人組」
「三」という数字が本日のキーワードになっているのでは
「東国三社」を締めくくる香取神宮ではどのような「三」が待ち受けているのか。
ワクワクしながら駐車場に辿り着く。
香取神宮の表参道には仲見世がある。平日であるからなのか人が少なくシャッターも目立つが、きっと土日祝日には賑わうのだろうと思いながら目もくれず参拝に向かう。写真では目前に青空が広がっているのだが、後方にはあり得ないほどの黒く澱めいた雨雲が近づいていたのだ。
鹿島神宮と同じく国の重要文化財の楼門は元禄13年(1700年)の造営だが、高さは不明である。
参拝が終わりベンチで一休みしていると、どこからともなくわらわらとおっちゃんたちが拝殿の中に吸い込まれていく。時期的に「茅の輪」が設置されているが、誰も八の字になんて周りはしない。ゆるいブラックホールにやんわり吸い込まれるようにそのまま茅の輪を通過していく様がとても面白く、動画にしておけばよかったと悔やまれる。
一般の参拝客はたまったもんじゃない。”茅の輪くぐり”を作法通りしたくてもできないのである。とっても長い貨物列車が通り過ぎるのを待つしかないかのようで、それも面白い。
お天気がジワジワと下り坂になるのを見越し早めに撤収するその参道で「ここでは”三”というキーワードに巡り合えなかったなあ」と少々落胆気味になった。その時である。
さっきのおじさんたちの群れ。
「おっちゃんの群れ」
「ホイルスピン三人組」と「息栖神社社務所三人組」
はっ!!
キーワードは
「おっちゃん!」
さて…
冒頭で塚原卜伝を取り上げるには訳があった。
卜伝から手ほどきを受けたひとりに居合の始祖と云われる林崎甚助重信がいた。自分の学んできた居合に卜伝の学んだ刀法が少しでも加味されているのかと思うと、少なからず往古に浪漫を感じるのである。
そうでなかったにしても、武術を嗜む人たちにとって、塚原卜伝と鹿島神宮は通過しておきたいアイテムのひとつではなかろうか。
ここから引用
鹿島で、天真正神道流(新当流)の修習をし、晩年の塚原ト伝に師事したとも言われているが、林崎流の伝書からみて、次のように考えられる。【天真正 林明神 林崎甚助重信】と、道統の初めに書いてあるところからみて、重信が鹿鳥で、飯篠長威斎家直が創始し、松本備前守政信―塚原土佐守(新左衛門)―塚原高幹(養子、実は吉川覚賢の二子・後にト伝と称す)と伝わった神道流(新当流)を修習し、晩年の塚原ト伝にも教えを受ける機会はあったものと思われる。林崎新夢想流(抜刀一宮流)伝書の奥伝に、「林崎新夢想流居合・極位秘術の大事・変の次第」の中に、「ト伝一之太刀」があるところを見ると、ト伝の教えを受けたしるしであろう。東 下野守平元治に抜刀を教え、東 下野守の高弟田宮平衛重正が、抜刀を林崎甚助重信に学んだのも、鹿島に居た時のことである。「林崎明神と林崎甚助重信」
編著 林崎甚助重信公資料研究委員会
発行 村山市
169頁 六、重信の足跡、より抜粋引用ここまで
「自らの道を見据え、要となる決意を支えるための場所」
となり得たかどうかまだわからないが、ひとまず9日間の東北旅ネタを15か月費やし終了させて安堵している。
そして
「おっちゃん」たちとの珍妙な出会いには感謝している。
「マイペース」
というものを学んだ笑
をりをりにかはらぬ空の月かげも
ちヾの眺めは雲のまにまに
※仏の広大な心は変らないのに、人の心が曇るから明暗が起こるんだよ。
流されすぎず受け止め過ぎず、マイペースで行こう!by おっとこまえ