北陸の国宝 若狭編
古代の若狭は天皇の食膳を貢納する「御食国」であったと云われる。若狭から南下すると京や奈良へ最短で移動できることもあり、古くから朝鮮半島は特に新羅からの渡来人が若狭に居を構え、その技術力と豊富な資源で産業を発展させていった。「若狭」の地名も朝鮮の言語が元になっていると云われているが、古墳からは金製の耳飾や独特な埴輪などが出土され新羅との深い関連が推測される。そして当時の繁栄を物語るかのように現在の小浜市東部の上中町周辺には古墳が多く存在し、北川沿いに国道27号線を車で走行すると左右にひょっこりぽこぽことその姿を露にしてくれる。
以前紹介した「吉備国」に同じ匂いを感じるのは私だけだろうか。
東小浜へ来ると北川の支流である遠敷川と松永川の合流地に「若狭国分寺跡」があり、寺域には巨大な「国分寺古墳」がある珍しい配置になっている。現在は宝永2年(1705年)頃に再建された「釈迦堂」と木造薬師如来坐像(国の重要文化財)が安置されている。
10年程前にも若狭を訪れたことがある。「神宮寺」から少し北上すると国分寺よりも古い創建である「若狭彦神社 上社(霊亀元年(715)創建)」、更に北上し国道にほど近く「若狭姫神社 下社(養老5年(721)創建)」の古社が鎮座し、上社には夫婦杉、下社には千年杉などの巨木もみえる。寺社だけでなく地域一帯が古代の空気に包まれたような不思議な懐古感と安堵感が押し寄せてくる。
そして東側の谷を流れる松永川には、今回尋ねる北陸の国宝建築物が二棟指定されている「明通寺」がある。
国道27号線から松永川に沿って山側へ進むと、初秋の沿道には彼岸花や咲き始めの秋桜たちが出迎えてくれる。仮にアスファルトが土の道に代わると、過ぎ去りし古き良き時代の風景だ。もはや車で向かうことに罪悪感を覚えるほどの空気の新鮮さと鳥のさえずりや木々のざわめきしか聞こえてこない。
明通寺縁起には、寺院建立の経緯が記されている。それによれば、長年殺戮した者を弔いたいと願う田村麻呂の夢の中に仏が現れ、若狭国文原の山中に伽藍を営むために良き地があると告げたのでその地を探すと、人里離れた嶮しい渓谷の奥に黄金色の光明を発する棡の大木があり、その樹下の石上に延源居士という一人の老いた沙門が坐していたので、その場所に六間五間の堂一宇を建立したところ、沙門は棡の木を用いて半丈六の薬師如来と七尺の降三世明王・深沙大将を作って堂に安置し、忽然と姿を消してしまったという。「棡寺」という寺号は、本堂に安置された三像が棡の霊木をもって作られたことによる。棡の霊木が発した光明に因んで「光明通寺」とも称され、後述する火災(一度目)の際に、焼失を免れた本尊が光明を放ったことにより発見されたことを機に 「明通寺」と改名されたともいわれている。明通寺とする現在でも、「棡」の名は山号「棡山」として伝えられている。
明通寺図録より引用
棡の木は、春に若葉が出たあと前年の葉が譲るように落葉する様が、親が子を育てて家が代々続いていくように見えて縁起が良いと云われている。「葉を譲る」ということでは「柏の木」も同様に云われている。
蝦夷と呼ばれた人たちの中には延暦21年(802年)に斬首された「阿弖流為と母礼」がいた。蝦夷征討を命じた桓武天皇は数年後崩御し、また4,5年後には「棡寺」が創建されている。
「蝦夷戮罔の亡魂得脱を訪わんがため」
「多年征戮するところの孤魂窮鬼を救わん」
史実が明らかにはされていないにしても、古文書類ではそのように伝承されているらしい。弘仁2年(811年)に田村麻呂は亡くなっているが「棡寺」が創建されて数年後であることを鑑みると、最後の大仕事であり、それは蝦夷とよばれた人たちの鎮魂と、末永い国家の安泰を願ったものであろう。
山門(仁王門)は鎌倉時代の様式を保ちつつも、貞享4年(1687年)江戸初期に再建されている。金剛力士像は文永元年(1264年)鎌倉時代当時のままで、風雨に晒された状態なので傷みは激しいが、現在でもその眼力は衰えを知らないようである。
棡の木と銀木犀のすぐ近くに拝観受付があり、三種類の御朱印(薬師如来、釈迦如来、不動明王)と図録も用意されている。
「国宝 本堂」内では寺務の方が聞き取りやすいお声で、明通寺の縁起を聞かせてくれる。伝説では棡の木で造られたという三体の像も本堂には檜で造られた像が、向って中央に「薬師如来」右に「降三世明王」左に「深沙大将」(すべて国重要文化財)と安置されている。「深沙大将」は珍しく確認されている中でも2.5m程で非常に大きく、造られた数もとても少ない。西遊記に登場する「沙悟浄」のモデルになったと云われている。「降三世明王」とは大日如来がヒンドゥー教世界を救うためにシヴァの改宗を求めるべく派遣され、異教である大自在天(シヴァ)とその妻、烏摩妃(パールヴァティー)を仏教へと改宗させたと云われる。そして三体の像の前に木製の名札が立てられているが、それぞれの名前の上に「旧国宝」と書かれている。あいにく撮影禁止のため〈明通寺の文化財〉のページで見ることができる。
「旧国宝」とは、「国宝」から「重要文化財」に変わった訳ではなく、1950年の文化財保護法施行以前の「国宝」ということだ。1950年以前の旧法で「国宝」と称されていた国指定の有形文化財(美術工芸品および建造物)をすべて「重要文化財」とし、その中でも特に価値のあるものを「国宝」としたのだ。法的な定義が変更されただけで「国宝」であることに変わりはないと思っている。
本堂を出ると右側の高い位置に「国宝 三重塔」がある。地域まつりの「てんこもり小浜フェスタ」が開催される平成30年9月8日(土)〜11月4日(日)まで、三重塔の秘仏「釈迦三尊像と阿弥陀三尊像」が開帳されている。石階段を上がった真正面から内陣の様子が見えるが、真裏からも見えるようになっている。
帰りに拝観受付所をこえると左側に「かえりみち」の案内板がある。「中門」を通って「客殿」や「庫裡」があり庭園を楽しむことができるが、「客殿」には平安時代後期の「不動明王(国重要文化財)」 が安置されている。客殿から外に出る「中庭門」を抜けると立派な桜の大木と、小浜市天然記念物で樹齢およそ500年といわれる「かやの大木」が目に飛び込んでくる。
明通寺境内には「かやの木」「棡の木」のほかにも山門横の「枝垂れ桜」や「ノウゼンカズラ」「擬宝珠」「睡蓮」など四季を通して多くの緑や花を愛でることができる。そして「鞍馬苔」という苔のようなシダ植物や、その他多くの苔類を見ることができる。中でも「姫蓮華木毛」は地衣類の中では比較的多く見られるらしいが、今回初めて見ることができた。
三重塔と本殿の間に小さな「弁天社」があったが、山門に向かう階段の向かいに「山祇神社」が鎮座している。「山祇=やまつみ」であろう、山の神、つまり白山明神をお祀りしているように思える。明通寺向かいの山の頂に「白山権現」を祀った三尺のお社があるらしいが、その遥拝所にも思える。往古、雨乞いの儀式があったらしいが、現在はどうなのであろうか不明である。特に気になるのが、狛犬の配置、、神様にお尻を向けた状態で真正面に向いている。これは若狭地方の神社でたまに見かける配置だがなにか理由があるのだろうか。足元の礎石も縦になっているように見える。しかも「阿吽」が逆のような…さして「きまり」のようなものは無いと思うが、当たり前ではないものを見つけるとなんだか嬉しい。
前記事で紹介した瑞龍寺のある高岡市は江戸時代初期に高岡町へと改名され高岡城を中心に新しい街や文化が形成され、今では富山市に次ぐ商業都市に発展している。しかし人口三万人に満たない小浜市は古代から継承されてきた若狭の自然や独自の文化が今も色濃く残されている。
独自の思想で独走し独呑の末に毒をはく by おっとこまえ