投稿日:2018年10月21日

北陸の国宝 越中編

 20歳ころしばらく高岡市に居たことがある。その近くにある「高岡古城公園」へはよく散歩したものだが、なにぶん30年前のことであって、しかも30年ぶり来たものだから、すっかり勝手を忘れてしまっている。そして北陸新幹線の開通にあたり新高岡駅なるものが建築され、商業地として更なる発展の途中にあるようだ。

 高岡の江戸時代は加賀前田家の領地であり、利家の嫡男で男子のいなかった利長は、異母弟の利常を養子にし後を継がせて富山城で隠居した。しかし富山城が焼失したため魚津城へ一時移転することになったが、慶長14年(1609年)9月に射水郡関野を高岡町と改め、新たに建築された高岡城に移り、現在の高岡市の礎となる城下町を形成した。

 慶長19年(1614年)5月20日に高岡城で利長は死去(享年53)し、その翌年の元和元年(1615年)には一国一城令により、大坂夏の陣からの利常凱旋を待って高岡城は廃城となった。とても僅かな期間であったが、その高岡城の遺構は現在でも跡地である「高岡古城公園」で垣間見ることができ、高岡の発展に尽力した利長を偲ぶことができる。

 そして利長の菩提寺として、利常が建立したのが「高岡山 瑞龍寺こうこうざんずいりゅうじ

高岡山 瑞龍寺 参道 八丁道

 あいの風とやま鉄道線(旧JR西日本)の高岡駅と北陸新幹線の新高岡駅との中央付近に位置し、若干近い高岡駅からでも徒歩10分ほどだ。高岡駅の南口から南下すると「瑞龍寺」から「前田利長墓所」を一直線につなぐ「八丁道」と交差し、その右手には「第一観光駐車場(無料)」がある。

前田利長公銅像

 「八丁道」を歩むと、目前でひれ伏した写真を撮りたくなるほど低い位置に腰掛けた利長公の銅像が出迎えてくれる。そしてしばらく進むと「瑞龍寺」門前の数台停車できる駐車場(無料)と拝観受付所がある。ここで拝観料を納め、御朱印帳を預け帰りに受け取るという仕組みだ。

 そしてここからは世俗を離れて寺院の聖域ですよ、という意味も有りげな「総門〈重要文化財〉」を抜けると、そこには左右対称の七堂伽藍といわれる中国式の社殿の配置と、城郭というよりは樹木がない枯山水や石庭を思わせるように広大に砂利が敷き詰められている。

瑞龍寺 国宝山門高岡山瑞龍寺(曹洞宗)
御本尊:釈迦如来
〒933-0863富山県高岡市関本町35
0766-22-0179

国宝 山門(平成九年国宝指定)

正保二年(一六四五)に建立され、万治年間場所を替えて建直す。延享三年(一七四六)火災で消失、現在の建物は文政三年(一八二〇)に竣工した。再建の棟梁は山上家二十四代善右衛門吉順である。和算により設計され、軒の出が深く禅宗寺院山門の雄と言える。瑞龍寺公式サイトより引用

瑞龍寺 国宝仏殿

国宝 仏殿(平成九年国宝指定)
棟札によって万治二年(一六五九)に建立されたことが明らかである。この仏殿は全国においても他に例を見ない貴重な建築である。おそらく山上善右衛門嘉広の最も心血を注いだ力作の一つであろう。伽藍の中央に位置し、基壇上に雄然と立つその姿は重壮完美まことに賞する言葉もない。まず外観を見るに、屋根は鉛板をもって葺かれている。これは全国においても金沢城石川門にその例を見るのみでこれ亦貴重な遺構と云わねばならない。

上層軒組は、三手先の詰組とし、整然と配列された扇捶等共に禅宗様建築の純粋な形式を表現したもので、注目せざるを得ないところである。一歩堂内に入れば、まず、すくすくと並列する柱が目につく。更に天井には優雅な曲線をもつエビ虹梁など、複雑にして、しかも妙を得た架構法は、実にここならではの感を深くし、只驚嘆のほかない。またこれらの用材はすべて欅の良質材で、その他床一面の戸室石の四半敷きをはじめ、須弥壇及び木階等の精巧な細工は、棟梁の命脈に通じるものがある。仏像は、三百有余年前中国から渡来されたもので、釈迦・文殊・普賢の所謂三尊が安置されている。天蓋も当時の作品であって、ハスの繊維と絹をもって織られたものと伝えられ、共に注目に値するものである。瑞龍寺公式サイトより引用

瑞龍寺 国宝法堂

国宝 法堂(平成九年国宝指定)
明暦年間(一六五五〜一六五七)の竣工に成る。建坪一八六坪。境内第一の大建築で仏殿と異り総檜造りとなっている。構造は方丈の形式に書院造りを加味したもので、六室より成っている。中央奥の室が所謂内陣で仏壇と大間を板間とする他はすべて畳敷きの間となっている。向って左奥の室には床・棚・書院・上段の間を附しているが特に棚の工法に注目したい。中央二室の格天井に描かれた草花は狩野安信の筆になるもので、また内陣の襖およぴ壁は、共に金箔押の高価なものである。

その他欄間の彫刻は独創性に富み、大胆な手法が見られるがこれも亦江戸初期の技法を充分に表現した優秀な遺作の一つである。全体的にいかにも大柄な造り方で、前面の広い板廊下と、その前方の土間の構造等、実に雄大な感にうたれるものである。瑞龍寺公式サイトより引用

 「山門」に入ると、順目と逆目のストライプに刈り揃えられた一面の芝に様変わりする。ゴルファーにはたまらない、高麗芝のフェアウェイか浅めのラフのようだ。そして左右に「回廊〈重要文化財〉」があり、右でも左でも好きな方から進める。もしくはそのまま真っ直ぐ「仏殿」に向かっても良い。

 江戸初期から修行僧や参拝者によって踏み固められたのであろう回廊の土の地面は左右が少し凹んでいるようにも見える。そして雨戸と障子が開けられ、そこから射し込む光の陰影がいっとき現世を忘れさせてくれる。

瑞龍寺 回廊

 「法堂」の中央に利長公の御位牌。左に不動明王の掛け軸。そして右に木造烏瑟沙摩明王うすさまみょうおう立像が安置されている。富山県指定有形文化財の「烏瑟沙摩明王〈高さ117cm〉」は、室町時代以前の作で、瑞龍寺建立時に前田家より寄進されたと云われている。そして横に併設されている売店ではフィギュアや自宅用の御札も販売され、あいにく撮影は禁止されているが間近で拝むことができる。そしてその姿のまま大型化した像が、回廊左の突き当りにある東司とうす(便所)の前に安置されている。

真言は「オンクロダノオンジャクソワカ」

瑞龍寺 烏瑟沙摩明王

 縛られた「猪頭天ちょとうてん」を足蹴にしようとしている姿だが、密教において猪頭天は「金剛猪面天」とも云われ、金剛力士の力強さと、その繁殖力から信仰の対象になっているはずなのだが、禅宗では猪の頭の不浄の神とされるみたいだ。

 余談だが、密教ではイノシシをそのままのイメージで捉え、禅宗ではイノシシを家畜化されたブタとも解釈して繁殖力だけでなく不浄とも捉えた違いもあるのだろうか。ハッキリ言えるのは西遊記に出てくる猪八戒ではないということ。

 「烏瑟沙摩明王」は女性の胎児を男性のものに変えることができると考えられていたらしく、猪頭天を締め上げて「女はいらぬ、男を授けよ」と憤怒でもって諭し、不浄や穢れの者として女性を避ける、仏教界では女人禁制、武家社会では男子相続による家の繁栄のためのシンボルだったのでは…と勝手に妄想してみる。 インド神話に出てくる「アグニ(Agni)」と同一視されるが、これは「火天」なのでどうだかな…。ただ、日本においては不浄の場所としてトイレにお祀りするらしく、瑞龍寺でもそのように勧めている。

瑞龍寺 烏瑟沙摩明王と猪頭天

 総門手前の拝観受付所向かいに、伽藍鎮守であろう「稲荷神社」がある。瑞龍寺は三代利常が利長の菩提寺として建立したが、その前身は利長が建立した法円寺であった。利家も利長も城替えするたびに近くに法円寺を建立し、伽藍鎮守に稲荷神を祀っていた。瑞龍寺の「稲荷神社」も秀吉や先代利家の出世に多大な影響を及ぼした「高徳稲荷」が法円寺時代から祀られたものではないかと、これまた勝手に妄想している。小さいお社だが精巧な造りなので瑞龍寺に来られたら稲荷神社への参拝もお勧めしたい。

瑞龍寺 稲荷神社

 加賀前田家は徳川家康が江戸に幕府を開いてから、取りつぶしの危機にあった。羽柴肥前守を称し続けた利長は、秀吉とのしがらみのない弟の利常を養子にし、徳川秀忠の次女である珠姫を正室とした。家康は若い利常を亡き者にしたかったが、秀忠に強く制止されたという。しかも利長は自らの存在感を薄め、家臣が利常を尊重するよう常に振舞った。そして最後は一説では服毒自殺とも云われているが非業の死を遂げている。

 いつの時代も変化は早い。思想や文化、言語でさえ、目まぐるしく変遷していく。昔の価値観や思想などにしばられ、これからを生きる若者の足を引っ張ってはいけない。引き際を見極め、スマートに世代交代を実現しようとした利長の爪の垢を煎じなければならない人が…に思える今日この頃…濁すにごす

瑞龍寺 御朱印

スマートな飲酒&トークが課題 by おっとこまえ

↑TOP