投稿日:2019年6月22日

10円と神さま 2話

 校門販売の怪しげなおじさんは、爽やかで怪しげな笑顔とスマートで怪しげな受け答えで、子供たちのツッコミにめげる事なく怪しげにかわしていく。学校では教えてくれない遊びの楽しみ方や工夫することを怪しげに教えてくれたり、時には「あかんもんはあかんで!」と厳しく怪しげに諭してもくれた。

「もうかえろー」

 楽しい時間に背を向けての帰り道、遠くを望むと住宅街まで緩やかな上り坂がうねうね続き、柿や桜などの木々と緑ゆたかな野原や農地に挟まれた道の脇には、まるで参道の灯籠のように彼岸花が咲き並んでいた。葉が無く風変わりで真っ赤な花に興味があり、手にとって眺めてみたいといつも思っていたが、「彼岸花には毒がある」と聞かされていたこともあって内心ビビってた。

 レンゲを摘み、たんぽぽの綿毛を飛ばし、ツツジの蜜を吸う。そして野いちごを食べてみたり、猫じゃらしやひっつき虫でよく遊んだ。四季を通じていろいろな植物に触れることができたが、彼岸花だけは遠目に眺めるだけで手が届くのに届かなかった。

 自然と向き合うことで見えてくる世界や、自然の中で自分と向き合うことの大切さなんて、今でも漠然としているけれど、当時目にした景色や匂いはしっかりと脳内に保存されている。理屈はわからないけれど生きていくうえできっと大切なことなんだろう。

「相撲、やらへん?」

 踏み固められた土の地面を見るたびに相撲を取りたがる友人がいた。それが他人の庭でも全く気にしない。誰の家かわからないまま大きな屋根付きの門がある裕福そうな家に、まるで自分の家のようにスウッと入りこみ、大きなザクロの木の下で素早く地面に足を擦って土俵を描き、すんごい笑顔で

「やろっ!」

 家主のおばちゃんはニコニコしながら「そこのザクロ食べてええで」

「やったあ!」

 相撲で遊んだ後は「気いつけなあかんで」と言うおばちゃんを尻目に、木によじ登ってザクロをもぎ取り一心不乱に食べたものだった。

 相撲好きの友人は当時関脇だった麒麟児が大好きだった。この頃の大相撲は横綱の北の湖と輪島が角界をリードし、大関貴ノ花や「戸締まり用心、火の用心〜一日一善!」のCMに出ていた高見山が人気だった。そして千代の富士が初入幕した頃でもあった。

 昭和56年1月場所、大関貴ノ花が引退し千代の富士は初優勝して大関に昇進している。それから約10年後に大関貴ノ花の息子、貴花田(貴乃花)に初顔合わせで敗戦しその数日後に引退を表明するなんてだれが予想できただろうか。

 さて、相撲キチガイの友人とは何度も相撲したが、勝ち負けの記憶だけは全く無い。

「アイスたべよー」

 ザクロのおばちゃんちを出るとすぐ駄菓子屋がある。上から覗けるアイスケースと栓抜き付きのコーラの冷蔵庫、くじ引き、アメ玉、ベッタン、縄跳び、ゲイラカイト、コカコーラヨーヨー、昆虫採集セット、スーパーボールなどなど、昭和の駄菓子屋というよりは1970年代に流行ったオモチャが加わって昭和末期の駄菓子屋へと進化していた。

 夏場はアイスケースめがけて駄菓子屋に駆け込み、引き戸を「バンッ!」と開けて、頭を突っ込んで「ふう〜生き返るふう〜」なぜか友人は「なんごく〜」と言っていた。そして大好きなホームランバーを手にして、雑に銀紙をピリピリ破きながらかぶりつく。

だいぶ話が逸れるが

 当時プロ野球が大人気だった。巨人のV9時代の終焉と長嶋茂雄氏の引退があったが、王貞治氏のホームラン世界記録と地元大阪の阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)の黄金時代を迎えたこともあって、巨人と阪急の人気は凄まじかった。同時期にガチャガチャの野球バッチが大流行し、子供たちはキャップの周りに好きなチームのバッチを付けていたが、特になかなか出現せずレア化していた阪急ブレーブスのバッチをつけていると羨望の的だった。

 そしてプラバットとゴムボールを使う野球チームを町内別に作りよく試合をしていた。それはお遊びというレベルではなく、上級生の選手兼監督を据えて、時間があるときは日々練習もしていた。ゴムボールの変化球の投げ方や、変化球の打ち方など、自分たちで工夫し、中でも上手な子はリトルリーグに進み、スカウトされる子もいたくらいだった。

 そして野球盤だ。父の影響もあって当初阪神ファンだった私と、巨人キチガイの友人とでよく伝統の一戦を盤上で楽しんだ。当時、プロ野球選手のカードがおまけで付いている「プロ野球スナック」20円(中身は確かポテトチップスではなくてサッポロポテトだったような)が流行し、友人はプロ野球カードをコンプリートしていた。「一番センター柴田、2番ショート高田、3番レフト張本、4番ファースト王、5番セカンドジョンソン、6番ライト淡口、7番サード河埜、8番キャッチャー吉田、9番ピッチャー堀内」9番までの打順を場内アナウンスみたいに言うのが友人の口癖だった。「9番ピッチャー今日は新浦」たまにピッチャーだけ変わった笑。

 そんな彼とさまざまな自分たちルールと技を開発した。左手の人差し指と右手の親指の間にボールを投げるレバーを挟み、人差し指は自分の方へ力を入れて、親指は相手の方へレバーを押すように力を入れて、しばらく静止する、そして人差し指を上にスッと上げると、親指がレバーを激しく押し出し、ボールはとてつもないスピードで飛んでいく。名付けて

「速球」

そのまんまだった笑。

 でもドンピシャでバットに当たればキレイな放物線を描いて場外ホームランになる。それが嫌だから、速球をだす前の静止中に、「パカン!」と消える魔球の落とし穴を開けてみる。するとその音で反応してバットを振ってしまうのだ。その後にやんわり投球、しかもニュルっとカーブ。勝つための手段は計り知れない。場外ホームランで20点〜。場外ホームランでボールが止まる位置次第で30点、40点と加算され、終われば472点対527点というどのスポーツにもありえない点数がはいったものだった。そのスコアを野球盤の箱にところ狭しとメモしていた。そして彼の口癖のお陰で阪神ファンなのに巨人の打順を覚えてしまい、気づけば王選手の世界記録のかかったホームランに熱狂するようになっていった。

長々と話が逸れてしまったが

 そんなプロ野球大人気時代に1本10円で買えるホームランバーに当たりが出たらもう1本。満塁ホームランが出たらなんと野球盤が貰えるという夢のような嬉しさに、完全に子供心を鷲掴みにされていた。しかしそんなホームランバーも売り切れのときがたまにある。アイスケースに頭を突っ込んだまま、目をギョロギョロさせてもホームランバーが見当たらなかったときのこの世の終わりかのような悲壮感。なく泣くメロンアイスを食べる。結局何かは食べる。でもあまりスネている子には、ずっと笑顔で何も言わなかった店のおばちゃんも「ないもんはないんやで、いつまでもスネたらあかん」「あの子見てみい」

視線を店の外にやると

「ホームランバーは売り切れました〜〜〜!」と大声で下校中の友達に大手を振っていた。

遠くから「うそやーん」「うそやーん」がこだまし、ホームランバー売り切れ無念会という謎の会合を繰り広げていると、焼けたようなあまーい匂いが風にのってやってくるのだ。

「ドカンや!」「ドカンのおっちゃん来てるー!」

 駄菓子屋を出て目前の橋を渡り右に曲がるとすぐ、ブロック壁にスレート屋根の古い公衆トイレがある。その手前が広場になっていて、たまにポン菓子を売っているのだ。

 円筒形の鉄の機械にお米を投入しクルクル回転させて加圧しながら加熱する。圧力がピークに達したら菓子を入れる金網でできたカゴをセットして投入口の弁をハンマーで叩き扉を開放すると一気に減圧「ドカン!」爆音と共に出来上がったお菓子が勢いよく「シャパー」っと放出される。

 当時は鉄の機械がクルクル回っているところに遭遇するととても嬉しかった。ポン菓子おじさんは圧力計を眺めながら「ドカンゆうでえ」「ドカンゆうでえ」と言いながらハンマーを手にして弁を叩こうとする。集まった子どもたちが耳を塞いでワクワクしながら見つめる。

「ドカン!」

「ヒャッ」「キャッ」「ワーッ」「アハハッ」
子供たちの悲鳴のような歓声に包まれるその瞬間に立ち会いたいのだ。

 しかし、ポン菓子が出来上がってしまった時に遭遇すると、おじさんは「できてるでえ」と言って勧めてくれるが、子供たちは「ええー!」「できてもうたん?」「いやーん」と無念の悲鳴をあげるのだ。「ごめんなあ」といって何粒かわけてくれたドカンのおっちゃん。いつもは優しかったが、クルクル回る鉄の機械を触ろうとするとすごく怒った。

 豆腐売りみたいに鐘をカランカラン鳴らして子供たちを集めてからドカンさせるポン菓子おじさんもいたみたいだが、ここではそれが無かったような気がする。記憶が曖昧だが「ドカン」ではなく「ドン」だったような気もする。

 学校の帰り道は楽しいことだらけ。

 だけど

 楽しいことの中に危険が存在しその境界があること、そして楽しんでいるときに、ある境界を越えるとつまらなくなること、それぞれが隣り合わせで存在することを、学校の帰り道で出会ったおっちゃんやおばちゃんたちが教えてくれた。

 昭和末期はそんな時代だったなのかなあとふと思う。

 しかし大人たちがいないとき、無言でその境界を教えてくれたところがあった。

第3話につづく by おっとこまえ

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