投稿日:2020年4月12日

えにし

そもそも…

少し離れた両親に近況を伝える事を大半の目的として作ったブログだった。

父のパソコンで一緒に見ていた母も、ディスプレイで文字を読むことが辛くなったようで、以降、テレビでブログを見てもらうよう勧めてはみたものの、テレビで見てもらう目的で作られていないサイト構造がゆえに、記事を読めるには読めるがモッサリとした動きで、少々使い勝手に問題があった。

というわけで…サイトのデザインを刷新し、以前に比べるとテレビで記事が読みやすくなったはなったが…


間に合わなかった…。


令和2年1月8日、父は他界した。その一ヶ月後に母は認知症専門の施設へと足を運んだ。

ゴルフが大好きだった父は70歳を過ぎても小松市の那谷寺付近にある小松パブリックに通い、よく大会に出場しては新聞にその名を載せていた。それは平成27年(2015年)11月を最後に8度も優勝する腕前で、しかも同年4月に利き手の親指を根元から切断する手術を施したにも関わらず退院後最後の優勝だった。

ところが平成29年(2017年)12月1日、小松パブリックでゴルフの練習中にOBになった球を取りに急な斜面を降りたとき、そのまま滑り落ちて左足を骨折し病院へ救急搬送された。翌年1月にはギプスを装着し熱心に歩行のリハビリを繰り返していたが、二度とゴルフができるようにはならなかった。当時79歳だった。

この頃、母が自分自身で記憶力の低下が気になって、父に病院へ連れてもらい検査した結果が、アルツハイマー型認知症だった。

思うように歩けなくなった足と二度とできないゴルフ。そして母の看護。度重なる心労にすっかり元気を無くしてしまった父に追い打ちをかけるかのような出来事が起きた。

血液検査で異常な数値が出た令和元年(2019年)8月。後日PET検査した結果、主治医から肝臓がんであることを告げられた。

元々、B型肝炎を持っていたことや、多くのアルコール摂取などが原因で肝硬変になり肝臓がんを併発した。そして腫瘍に栄養を運んでいる動脈を塞ぐ肝動脈塞栓術を施すことになったが、それは1度の手術ではなく、何度も何度も繰り返さなければならないと。そんなようなことを主治医から言われたような気がする。

翌月9月3日に最初の手術を無事に終え、翌週には退院した。そして3ヶ月後に、2度目の手術を施すか否かを決断するための再診日を迎えた。

しかし…

「もう手の施しようがありません」という主治医の言葉だった。父は「見放された」と言っていた。が、仮に手術をすることになったとしても断るし、入院もしないと言っていた。

それは、自分が入院するということは、認知症の母の世話をする人がいなくなることを意味し、自分の入院と共に母も精神科へ入院させるか施設へ入所させなければならないということに対して納得ができなかったのも理由のひとつであった。

自宅で死を迎える。という選択を医師も父も決断したのだが、それには落とし穴があった。

自宅療養を余儀なくされた令和元年12月、母の食事の世話をしながらの生活も、徐々に腹水が溜まり、排便できにくくなり、動くことも困難になってきた。

近所のかかりつけ医や看護師も、自宅へ様子を伺いに来ては、入院を勧めた。私も強く説得したが、父は首を縦には振らなかった。

時はまだ、新型コロナウィルスが中国の武漢市で「原因不明のウイルス性肺炎」として蔓延し始め、まだまだ他国のことだと思っていた時期であった。

そして令和2年元日、新年の挨拶に自宅へ向かうと、父は「ごめんなあ、ごめんなあ」と泣くだけだった。母もつられて泣いていた。しかし、しんどいながらもなんとか歩行し立つことができていたので、少し安心した。が、その一週間後の1月8日早朝だった。


「何も聞かずにすぐに来て!お願い!とにかく来て!!」


電話から聴こえる母の悲痛な叫びに戸惑いはなかったが、仕事場から自宅まで20分はかかる。ついにその時は来たか。と思いつつも間に合うことだけを祈った。

父はベッドから起きようとして転び、ベッドに手をかけて立とうとしたけれども立てない…。例えるなら、正座をしながらこたつテーブルに伏せって寝ているような、そんな態勢になっていた。

母は必死に起こそうとしたらしいが、起こせず、どうしていいかわからなくなって、私に電話をしてきたのだ。

私はそれを見た瞬間、すぐに救急車を呼んだ。

そして救急搬送された近くの総合病院で主治医も駆けつけてくださり、ある一言に愕然とした。

「きちんと食事していましたか?血糖値が15しかありませんでした」それと…「肝臓がんも、もって1ヶ月。急変で1,2日です」

年末に1週間分近い食料と、少しのおせち料理を買い込んだが、8日の朝、台所を確認すると、おせち料理のパッケージが捨てられているだけで、あとはそのまま残っていた事を思い出した。母に食事のことを聞いても思い出せない。

私は「たぶん食べていないかもしれない」と言った。

しかし、何年にも渡って糖尿病で血糖値が240前後で自分でインシュリンを打っていただけに、血糖値が15というのは信じられなかった。私のことだ、聞き違いだろうと思ったが、低血糖であることに違いはなかった。

点滴をうって、少し会話ができるようになった父に、食事のことを聞くとそこだけ答えなかった。ただ血糖値が15まで落ちて低血糖で運ばれたことを伝えると。「なんでや…」の一言だった。これが父との最後の会話だった。

しばらく入院することになる父の準備と同時に、一人になってしまう母を同じ病院に入院させてもらうべく精神科の主治医に懇願すると、偶然にも空室があったため快諾いただいた。ひとまず父の退院までと希望したが、主治医のはからいで1〜2ヶ月入院させていただくことに。これが後々助かることになった…

母の入院のための簡単な検査に立ち会い、一旦自宅へ戻り入院の準備をして病院へ戻ると…

父はすでに吐血していた。

後から看護師に聞いた話だが、私と母で一旦自宅へ戻っているときに「二人ともどこ行ったあ」と少し話しが出来るようになっていたらしく、その数分後に急変し吐血したらしい。

今晩がヤマだと悟り、近親者に連絡した。そしてしばらく父と母二人だけにした。

外はありえないほどの暴風と横殴りの雨だった。


そして、1月8日18時45分、父は皆に見守られながら息を引き取った。

母はそのまま入院したが、父が亡くなったことなど翌日には全く覚えていなかった。ただ「家に帰りたい」それだけだった。少なからず認知症という煩わしい病が、辛い現実と深い悲しみから開放してくれたかのようにも思えた。

今後、母の新しい入所先を探すと共に、父の相続などの後始末…慌ただしい日々を送ることになるだろうと、自宅の両親の寝室をぼんやり眺めていると、ふと、父がよく使っていたパソコンのそばにある卓上カレンダーに目が止まった。

父は生前、カレンダーにバツ印を付けることだけは欠かさなかった。壁掛けのカレンダー2箇所とこの卓上カレンダーと。ところが、すべてのカレンダーのバツ印が1月4日で途切れていた。しかもその4日のバツ印の書き方が、何度も何度も上から書き直してあるのを見たら、ブワッと涙が溢れ出てきた。

4日の日…この日が限界だったんだ。ぎりぎりまで母を必死に支えてたんだ。

8日の朝、ベッドの脇で起き上がれなくなるまでの3日間、飲まず食わずで苦しんでたんだ。それで血糖値が極端に低下したんだ。

なんで気づかなかったんだろう。と自責の念が押し寄せてきた。が、何をどう悔やもうが何もどうにもならない。涙を拭いスパッと遺品を整理しようと心に誓った。そしてもう二度と後悔しないように。

そして父の四十九日を終える頃には、相続等の後始末を終え、母の入所先も決まった。

父の死をきっかけに様々な人たちと出会い、そして助けられた。それはほとんどが初めての経験だったが、嬉しいことや楽しいことに導かれるご縁もあれば、悲しいことや苦しいことに向き合えるご縁もある。物事はすべてつながって成り立っているのだ。


父は私が成人してから、何事にも決して口を挟まなかった。私に迷惑をかけるような自分勝手な行動など一切無かった。都合の良いお願い事や、事を急くような事も一切無かった。そして私が自由にできる必要最低限のものを残してくれた。私を信じ切ってくれた。その結果速やかに母の居場所が見つかった。母をなんとかせねば!と一途に願った父の頑固なまでの思いが今現実に実っている。どこであろうと毎日笑顔で豊かに過ごせているのは様々なご縁のおかげなんだ。


とても良い意味で「老いの一徹」だったな by おっとこまえ

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