相通ずる刀と扇
北陸新幹線 金沢・富山~長野間 開業おめでとうございます
江戸時代…大名の力を弱めるためなどと云われていた参勤交代
加賀から江戸まで約三千人が約十五日の行程で毎回数億円もの費用をかけていたそうだが
この時代に江戸まで二時間半程度で行けたなら歴史はどうなっていたのだろう…
なんて、どうでも良いようなことをボンヤリ考えてみたりしている…
それもこれも気管支炎がワルイ!咳が止まらない!売上低下が止まらない!
あ~~
もうどうにもとまらない!!
ロマンちっくがとまら…
さて…書籍「狂言の研究」(1967年) 古川久(著)の巻尾に「狂言藝談野村万蔵聞書」から一部抜粋された「万蔵藝談」が掲載されている。
これは著者が能楽師 和泉流狂言方 六世 野村万蔵氏の口述をまとめたもので、現在の能楽師 和泉流狂言方で人間国宝、野村萬氏の御父様であります。
その「万蔵藝談」に「扇」に関することが記されている。
「私どもが扇といふものに対する観念は、いはゞ武士の刀のやうなものですから」
で始まる文章に一時、眼が釘付けになった…というのも、居合と狂言にご縁があって以来、刀と扇は扱い方だけでなく気持ちの面でも通じるものを感じていた。
「先年亡くなられた能の大夫が、舞つて居られる最中に扇を落とされましたが、落ちるくらい軽く扱うことが出来れば上々で、道に達して居られた証拠でありましょう」~中略~「小指と薬指とで要ところを軽く持ち、他の指は添え物とします。開いたりすぼめたりしますには、右手を主として用い左手は添えてただあしらうだけに致します」
刀を落とすのは危険だが、(居合師)北島国紘は「柄を握り締めるのではなく、掌に吸付かせるように」と、また一番チカラを込めるであろうと思われる上段からの打ち付けでも10本指のうち3~4本指くらいしか力を入れない。
左手で扱う鞘も握り締めずに軽く添えるだけ。
床(地面)に扇を置く場合、いつでも持って立てる場合は前へ置き、さしずめ不要の場合は右脇へ置きます。
刀の場合はいつ抜いてもいいような場合は左へ置き、抜いてはいけない、目上の人の目前に居るような場合は右へ置きます。
勝手な解釈だが、扇を扱うときは刀のように丁寧に扱い、刀を扱うときは扇のように優しく扱う…のかなぁ
儀式用に扇を扱いはじめた平安後期の時代から、扇は刀と同様、常に武士とともに歩み続け、猿楽(現在の能楽)が武士の芸能となり嗜みににもなった。
文禄2年(1593年)には豊臣秀吉公が後陽成天皇を前に「禁中御能」を開催し、前田利家公と徳川家康公とともに「耳引」という狂言を上演したという説がある。
この「耳引」は現在の「井杭」であるといわれている。
狂言「井杭」のあらすじ
井杭という名の男(シテ)は、目をかけてくれる檀那の何某にいつも戯れに頭を叩かれるのが嫌で、清水の観世音に祈願をして「隠れ頭巾」を賜る。それをもって檀那を訪ねると、また頭を叩かれる。すると井杭は「隠れ頭巾」をかぶって姿を消すのだが、それに驚いた何某は、ちょうど通りかかった算置き(占者)を呼び入れて占わせる。 算置きは算木を並べて占い、まず消えた者は生き物であると言い当て、井杭の居場所も示す。井杭は慌てて居場所を変え、姿の見えないことをよいことに、算木を隠したり、二人に悪ふざけをして喧嘩をさせる。頃合いをみて姿を現すので、二人は逃げる井杭を追っていく。引用:狂言ハンドブック
井杭の二人に対する悪ふざけは、二人の耳を引っ張ることなのだが、「耳引」という曲名がそこから来ているかどうかは不明だ。またこの「井杭」は「出る杭は打たれる」から来たと推測されているが、出る杭が秀吉公であったかどうかは定かではない…
狂言小舞を一曲学んだときに「これで披露できますね」と師から言われたことを思い出す。
昨年居合演武奉納の為、山形を訪問したが、そのときの宿泊先の宴会場が、なにかと広かった。
タラレバだが、扇があればヘタッピなりに舞えたのだろうか…。
居合人たちの前で、小舞を舞えるなんて…
なんてカッコいいんだ!!byおっとこまえ